中学生の時、私は友達Aとゲームのことで口論になりました。
ただの些細なことだったのに、翌日学校へ行くと、誰も目を合わせず、挨拶も返ってこない。
それは突然のいじめの始まりでした。
私は、それがAとの間だけの問題だと思っていました。
でも、関わりの薄かったクラスメイトが率先していじめに加わり、仲の良かった人たちは静かに距離を置いていきました。
挨拶しても無視され、舌打ちをされ、自分の写真をカッターで切られる――。心がどんどんすり減っていきました。
振り返れば、当時の自分にも非があったと思います。
平気で傷つける言葉を使い、「自分の方が先生に信用されている」なんて言っていた。
小学校の頃は「嫌なやつ」としても何とか人間関係が続いていましたが、中学では人との関係が新しくなることで、私の居場所は一気になくなりました。
それでも、どんな理由があっても「いじめ」は絶対にしてはいけないことです。
誰かを精神的に追い詰める行為が許されることは、決してありません。
学校に行かないという選択
私は抵抗する力も、誰かに相談する術も持っていませんでした。
そこで取った行動は、「学校へ行かない」という選択でした。
中1から中3まで、私はずっと家でテレビを見たり、ゲームをしたりして過ごしていました。
そんなある日、オンラインゲームを通じて知り合った人に「課金したいんですよね」と話したところ、
「裸の写真をくれたら買ってあげるよ」と言われたのです。
私は無邪気に「課金できるんだ、やったー」と思ってしまいました。
人との関係や良し悪しの判断も未熟だった私は、その危険性に気づくことができませんでした。
幸いにも家にはカメラがなかったため、写真を撮ることも送ることもできず、それ以上は進みませんでした。
でも、もしあの時カメラがあったら…と思うと、今でもゾッとします。
「家にいる=安全」ではないという現実。
不登校であっても、ネットの中には目に見えない危険がたくさんあります。
子ども自身も、大人も、それを知らなければなりません。
子どもを「見守る」ということ
不登校の子どもたちは「自由」を求めているのではなく、「安全」を求めています。
ただ、「親がそばにいるから安全」なのではなく、
**「親がちゃんと見てくれているから安全」**なのです。
目を背けず、静かに、でも確かに見てあげてください。
その視線が、子どもにとっては何よりの支えになります。
私は現在、駄菓子屋と寮を運営しています。
そこに来る子どもたちの中には、通話アプリでアダルトな真似事をしたり、知らない番号に悪戯電話をしたりと、危険な行動をしてしまう子もいます。
そうした行為を、私は絶対に見過ごしません。
怒ることは、感情をぶつけることではなく、注意=伝えること。
「怒らない=優しさ」ではなく、私は「怒らない=育児放棄」だと思っています。
子どもに必要なことを、しっかり伝える――それが本当の大人の役割です。
今、思うこと
あの時学校に通い続けていたら、私はどうなっていたか…。
死んでいたかもしれないし、生きていても壊れていたかもしれない。
その答えは、今となっては分かりません。
でも、今の私がここにいるのは、「安全」を選んだからだと、心から思っています。
そして――
「いじめを受けたからこそ」
私は今、人を大切にしたい。誰かを傷つけたくない。そう思える自分になれたのです。
不登校のあなたへ伝えたいこと
学校に行けていないことで、自分はダメなんじゃないか、何もできないんじゃないか、と思っているかもしれません。
でも、あなたが「学校に行かない」という選択をしたのは、生きるために、自分を守るために必要だった選択です。
それは「逃げ」ではなく「命を守る力」なのです。
周りと比べなくていい。今は、心が落ち着く場所で、心を休める時間を大切にしてください。
あなたが今、ここにいること。それだけで本当にすごいことなんです。
そして、必ずあなたのことを見ている人、理解しようとしてくれる人がいます。
どうか、自分の価値を見失わないでください。
不登校の子どもを持つ保護者の方へ
お子さんが学校に行かなくなった時、戸惑い、不安、焦り、いろんな感情があると思います。
でも、まず伝えたいのは、子どもは「自由」ではなく「安全」を求めているということです。
そして、「親がそばにいるから安全」なのではなく、
**「親がちゃんと見てくれているから安全」**なのです。
見守るというのは、何もしないことではありません。
干渉せず、でもいつも目と心を向けていてあげること。
それが、子どもにとって最も安心できる「居場所」になります。
怒ることや注意することも、時には必要です。
それは、愛情があるからこそできる「伝える」という行為です。
どうか、お子さんを信じて、しっかりと“見てあげて”ください。
